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2020.04.16

中国との出会いの場所 横浜中華街の歴史とコンサルティングの始まり

昨今の日本では、新型コロナウイルス感染の影響で、静かな日々を過ごしています。今まで賑わっていた繁華街も人通りはまばらで、経済的な影響も出てきています。

弊社の横浜支店の近くにある「横浜中華街」も多大な影響を受けており、多くの店舗が、自主的に臨時休業を余儀なくされています。

今はしょうがないとは言え、寂しい想いもあります。

そこで華やかな復活を願って、横浜中華街の歴史を紹介します。実は、横浜中華街はコンサルティングから生まれた街!?横浜中華街の知られざる一面を伝えられたらと思います。

 

横浜中華街は田んぼを埋め立て地だった!?

1850年代、黒船の来航で開国を余儀なくされた江戸幕府。
1857年の日米修好通商条約を皮切りに、イギリス、フランス、オランダ、ロシアとも通商条約を結び、日本各地に、貿易港が開設されました。

そのひとつが横浜です。

 

横浜開港に際して、欧米の商人たちが滞在できるようにするため、周辺地に外国人居留地が設けられました。その居留地は、もともと田んぼだった横浜新田(よこはましんでん)と呼ばれている土地でした。
江戸幕府は、この土地を村人から接収し、あぜ道を残したまま埋め立てて、居留地として、商館や住宅などを建築したのです。ただ居留地に住むことができるのは、原則として修好通商条約を結んだ国の人だけ。だが多くの欧米人が日本語を話せず、ビジネスに支障をきたすため、日本語が出来る通訳を雇う必要がありました。

 

そこで白羽の矢が立ったのが、漢字を使うことができて、日本との交流も古くからあった中国人でした。日本は、中国と修好通商条約を結んでいなかったために、本来なら中国人は、日本に入国できませんでしたが、ビジネスの好機と判断した中国の商人たちが、日本へ渡ってきたというわけです。

 

実は、居留地は欧米人には気に入られなかったようです。
何故なら田んぼを埋め立てたため、土地がジメジメとしていて、海からも近いので、水害の危険もあるからです。そこで中国人が生活をする場所として提供されることになり、横浜中華街が形成されるきっかけとなりました。

 

横浜中華街の道路は斜めなのか?

実は、横浜中華街の道路は周辺の道路と向きが異なっています。地図を見てみるとよく分かりますが、ほぼ45度ほど周辺の道路とズレています。
何故かというと、当時は道路を作る際に、海岸線を基準に作られましたが、横浜中華街の基となる田んぼが開墾された時、日当たりを良くするために、影が出来にくい南北にあぜ道を作りました。
これが、そのまま居留地の道路にも流用されたのです。ただ南北に沿った街並みは、中国で重んじられている風水の観点から優れていたようで。その影響で、中国人がこの地域を好んで、住むようになりました。それが横浜中華街の始まりとなりました。

 

横浜中華街はいつからグルメタウンになったの?

世界のあちこちに、中国人が暮らす中華街(チャイナタウン)があります。ただ規模の大きい中華街がある東南アジアやアメリカでは、昔は、第一次産業(農業、漁業等)に携わる人たちが多く住んでいました。
それに対して、横浜中華街は最初からサービス業をはじめとする、第三次産業の仕事をする人が多く住んでいたという特徴があります。これは当時、居留地に住んでいた欧米人のビジネスをサポートするために雇われるという、特殊な事情による流れのようです。

 

横浜開港の当初、中国人は欧米人が営む貿易商の通訳や、日本人との折衝を担当する番頭役の仕事に就いていました。今でいう「コンサルティング」をしていたんですね。

 

その後の明治維新後、横浜での貿易が落ち着いてきても横浜中華街は残り、中国人の仕事内容も変化していきました。中国人が得意とした代表的な職業に「料理」「理髪」「裁縫」の3つがあります。いずれも刃物を使用する職業であったことから、この3つを総称して「三把刀(さんばとう)」と呼び、明治政府も、この3つの職業には営業許可を与えました。
つまり横浜中華街は、最初から現在のような中華料理店がひしめき合うグルメタウンではなく、中国人に許された3つの得意な職業のうちの「料理」が、いつの時代にも求められ、それが発展してグルメタウンとなっていったのです。

 

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